松尾雅彦さんのこと

スマート・テロワール協会の顧問北野収様(獨協大学教授)から、協会の設立者であります故松尾雅彦さんについてのエッセイをご寄稿いただきました。北野教授は松尾さんが、トーマス・ライソン著/北野収訳・解説の書『シビック・アグリカルチャー:食と農を地域にとりもどす』にいかに傾倒していたかを紹介されてます。

*初出:NPO法人信州まちづくり研究会ブログ(二〇二三年六月二四日)

職人、料理人、営業マン、エンジニア、会計、医師など、職業や分野を問わず、何かを極めた人が話す言葉は人を魅了する。元役人で現在は大学教員である私の交友範囲は、やはり役所と大学という二つのカテゴリーが相対的に多い。しかし私も、自分にないものを持つ人、自分が経験したことがない経験をもつ人から学べることが多々あることは知っている。私に縁遠い仕事の分野はたくさんあるが、ビジネスや企業経営もその一つであった。大勢の人間と大きな額のお金を動かし、収益を上げるのみならず、一定の公共性を担保するような大きな仕事をした人に対しては、偉大な研究者ら対して抱く尊敬の念とはまた別の「憧れ」にも通じるものを感じる。そのような人の言葉は、理屈抜きで面白く、説得力がある。

 実際にそのような方を大勢存じ上げているわけではない。現在勤めている大学では、大手企業の部長職等を経験された実務畑の方を特任教授としてお招きしている。その中のお一人、I先生と講師室で談笑させていただく中、ふと、役人とも研究者とも違う視点からの深い洞察を感じることがある。もう一人、父の末弟の叔父芳則は、高度経済成長のころ、地元富山の吉田工業(現YKK)に入った。その後渡米し、会社人生の大半をアメリカで過ごし、YKKのアメリカでのファスナーのシェア第一位に押し上げた。帰国後は、副社長、副会長を務めた。叔父の話は、学者・弁護士だった父とは別の意味で、理屈抜きで愉快で痛快で説得力があった。

 二〇一二年のある日、パソコンを開けると「カルビー株式会社の元社長・相談役の松尾雅彦さんが、私が手がけた本への関心を持っていて、私に会いたいといっている。大学を訪問してよいか」という旨のメールが届いていた。私は何かの悪戯だと思った。まず、そのような地位にある人が、無名の大学教師に連絡をするはずがない。そもそも、私が手がけたその本、トーマス・ライソン著/北野収訳・解説『シビック・アグリカルチャー:食と農を地域にとりもどす』は、食のグローバル化に警告を発する本で、巨大アグリビジネスや食品産業を批判している。ライソン先生は、コーネル大学時代の私の恩師の一人だ。私は疑心暗鬼のまま、「いつ、お越しになりますか」と返信をした。

 松尾さんは右腕ともいうべきライターのAさんを伴って、大学にやってきた。私が手がけた本は大変画期的な本だと思うので、訳者に話を聞きたいとのことだった。私は、大手企業の経営者が大企業を批判する本のどこに価値を見いだしたのかがわからなかった。ただ、広島出身の松尾さんは、幼少時に原爆に被爆したこと、カルビー時代、輸入材料に頼らず、頑なに北海道のジャガイモ農家をはじめとする国内各地の農家との関係強化に努めてきたこと、慶應の同期生で親友の栗本信一郎氏と一緒にカール・ポランニー(ハンガリー出身の経済人類学者、資本主義の暴走に警鐘を鳴らした)に傾倒してきたこと、カルビーを引退後、「日本で最も美しい村」連合の副会長として、農山村地域の活性化に奔走されていることを知った。一流の企業人らしく、歯に衣着せぬ物言いで、次々に私に質問をした。私が松尾さんに質問をするのではなく、松尾さんが私に質問をするのだ。たじろぎながらも、私は必至に舌足らずの返答をした。

 次にその三人で集まったのは、東京駅八重洲口のカルビー本社近くのイタリアンレストランだった。今度は松尾さんのご招待であった。食通の松尾さんに勧められるがまま、食事とワインをご馳走になり、大学での話の続きをした。ワインの力と、二度目ということもあり、よりリラックスして打ち解けた会話となった。二度の会話は録音され、年明けに『農業経営者』という雑誌の記事になった。驚いたことに、記事では、私がメインの話し手で、インタビュー役が松尾さんだった。

 それから一年以上音沙汰がなかったが、松尾さんの出版祝賀会があるので、参加してほしいとの連絡が入った。都内のホテルの一室には、松尾さんと親しい人たち、コンサルタントや元官僚などの「ブレーン」の面々がいた。出来たばかりの松尾雅彦著『スマート・テロワール:農村消滅論からの大転換』という本を手渡された。松尾さんは「先生の本に触発されて書いた本です」と言った。タイトルにある「大転換」という言葉は、松尾さんが敬愛するポランニーの名著『大転換』からとったに違いなかった。その場でも、私は再び狐につままれているような感覚に陥り、美味しいはずの料理の味もわからない状態だった。エリート官僚、政府系の仕事をしている大手コンサル、どちらかというよりも、完全に保守派のライターや編集者など、私には縁遠いと思われる人たちが集まっていた。その席で、松尾さんはこの構想を進める団体ができたら「先生には顧問になってもらいたい」と私に耳打ちした。

 いただいた本を読んでみて、私は二つの意味で驚いた。一つ目は学者の文章ではなく、完全に企業人の文章だったこと。二つ目はその企業人の文章で書かれていた内容が、学者であるライソン教授や私が日ごろから言っていることと、かなりの部分で共通していたことである。読後、内容にいたく同意しつつも、私は自分の敗北を認めざるを得なかった。学者がどんなに精緻な論文や学術書を書いても、一流の企業人の言葉にはかなわない。訴求力、オーラが違う。「負けた」と素直に思った。もちろん、松尾さんの言葉にプロのライターが手を入れていることは知っている。しかし、松尾さんとの二度の長時間対談を経験した私には、行間からだけでなく、本全体から滲み出す松尾さんの世界観がよく見とれた。『スマート・テロワール』はそれから一年余り、農業書のベストセラーを独走した。

 スマート・テロワールとは、地域に根差した食と農の自給圏およびその実現のための構想である。戦後から現代までの間にコメが偏重されてきた農村は実は日本の原風景ではなく、かつての五穀豊穣の美しい邑(むら)を人々の手に取り戻そうという訳だ。松尾さんは自らの構想の実現のため、海外と日本中を飛び回り、既にいろいろな「仕込み」をされていた。アメリカのコーネル大学に行き、大学と地域農家の連携の様子を研究した。長野県庁や山形大学農学部と連携して、自給圏にむけての各種のパイロット事業の種まきをしていた。日本中をまわり、意欲のある農家を掘り起こし、講演会に集めて啓蒙と激励をした。日本のいろいろなところに「松尾ファン」が大勢生まれた。行く先々で、『シビック・アグリカルチャー』の本の宣伝もして下さったので、私が手がけた本にしては珍しくよく売れた。二〇一六年に上梓したフランツ・ヴァンデルホフ著/北野収訳・解説『貧しい人々のマニフェスト:フェアトレードの思想』を謹呈させていただくと、すぐに同書の真髄を凝縮した簡潔なコメントをいただいた。いやはや大変なお方と思った。どうやら、私も「松尾マジック」に感染してしまったようだった。

 松尾さんの講演会の露払いあるいは太刀持ちのような形で、参加させていただいた。質疑の時間になると、全国から集まった意欲溢れる農家の方々が次々に挙手して、質問を投げかけた。まるで、新入社員の質問に社長が答えるようなノリで、単純明快、論理的、合理的、そして農家よりも世界の現場を知り尽くした松尾さんは、質問を瞬時に的確に「処理」していった。見事な「瞬殺」ぶりであった。一流の企業人は、やはり凄い。学者にはあのような芸は絶対にできない。「役者が違う」とはこのことだと思った。ある農家に、松尾さんはこう言った。「売れないのはあなたが悪い。皆が作っているものと同じものを作っていたら駄目です。皆が作っていないものをやってごらんなさい」。伝家の宝刀あるいは「松尾節」と呼ぶべきか。会場がしーんとなって、皆が納得した様子が鈍感な私にも伝わった。一流の企業人のカリスマを脇でダイレクトに感じた私は、その数分前に「北野教授からのコメント」として話した内容の薄っぺらさをただただ恥じるばかりであった。

 しばらくして、松尾さんから直々にメールをいただいた。自給圏構想を進めるための一般社団法人を作るので、その団体の名称を「シビック・アグリカルチャー協会」にすることを許可してほしい、という内容だった。身に余る光栄であることは理解しつつ、私は即答せず、

一~二晩考えた。シビック・アグリカルチャーという概念には「食と農の自給圏」と「(西欧型)市民社会の復権」という二つの含意がある。前者については問題ないにせよ、後者について松尾さんはともかく他の協力者の方々は十分に理解されているのだろうか。そして「シビック・アグリカルチャー」という言葉は、私の言葉ではなく、トーマス・ライソン先生の言葉だ。天に召されたライソン先生のご意向を確認することはもはや叶わない。熟慮の上、私は、僭越ながら松尾さんの言葉であり、構想した概念である「スマート・テロワール協会」にしたらどうでしょうか、という旨の返事をした。

 それからしばらくして、「スマート・テロワール協会」の設立準備の集まりで再び松尾さんにお目にかかった。私は、団体の名称に関するやり取り以来、いずれ松尾さんのお話をじっくり伺いたいと思っていた。それは、松尾さんがいう「五穀豊穣の美しい邑」を取り戻すことと、ライソン先生がいう「食と農、(西欧型)市民共同体」を取り戻すことは、本質的には同じ価値観を共有していたとしても、実態としてはかなり異なるものではないか、という私の疑問についてであった。市民社会論である「シビック・アグリカルチャー」を企業人でありつつも、ポランニーを敬愛する松尾さんはどのように受け止めていたのか。この話題は私にとって非常に重要なことなので、立食パーティの席で不用意に口走り、その場で「瞬殺」されることが怖かった。結局、その日の話題に出すのは止めにして、次の機会を待つことにした。

 松尾さんに直接お目にかかったのはそれが最後となった。二〇一八年三月に、松尾さんの訃報が届いた。カルビーの現役時代にいくつもの大きな仕事を成し遂げた松尾さんの、第二の人生における大きな仕事がやっと形になりかけた、その矢先。さぞかしご無念だったであろう。

 松尾さんは私以上に「市民社会」というものを深く理解されていたのかもしれない。しかし、周囲の人たちと松尾さんとの間の温度差がなかった訳ではないだろう。松尾さんの当初のご希望通り、「シビック・アグリカルチャー協会」にすべきだったのだろうか。自分のあの返答が適切だったか否か。今でもわからない。私は松尾さんに対して、「誤解」「後悔」「感謝」の三つが入り混じった複雑な気持ちを抱いている。一般社団法人スマート・テロワール協会は、松尾さんのもう一人の親友、中田康雄さんが遺志を引き継ぎ、活動を展開している。